自分の色を創り出すために

先日、高校時代から受験期を除いてずっと続けてきたSNSをほぼ辞めた。(ここでいうSNSはLINEは含めない)“ほぼ”と表現したのは、自分が知りたい情報を入手するためのフォロワーゼロのTwitterは残してあるから。友人や同じ学校の人とのSNS上の繋がりは完璧に切った。

SNSが主流の世界、そして年代のなかを生きているのにもかかわらず、なぜここまで思い切った行動をしたのか。

一番の大きな理由は「SNSで友人や同じ学校の人とつながる必要性がないと思った」から。

 

自分は正直なところ、1人でいる時間が好きで、自分から人に新たに話しに行くことはまずない。それはSNSでの世界でも同じで、SNSをやっていたころもそのアカウントでフォローをしに行くことはほとんどしない。学校で話したからとか、同じクラスだから、などフォローする人の大半は実際に顔を知っていて、話したことがある人であった。なのでSNSを仮に続けていても、“つながっている”人の多くは連絡先つまりはLINEという手段がある。だからSNSを辞めるという決断に迷いはなかった。

 

SNSでは様々な情報が手に入れることができるが、同時に、自分の日常、生活を発信、それを見ることができる。あの人がいま〇〇に行っている、だとか、あの人はいま〇〇を食べている、だとか、あの人はいま彼女と遊んでいるという情報。今まではその情報に何も思うことはなかったが、最近になって時間の有効活用がより求められるようになり、無駄だと思うことを自分の生活から除いていくようになった。その“無駄だと思うこと”にそのような他人の日常や生活を知ること、自分の日常や生活を発信することが当てはまったのである。あいつの生活を知ったところで単位を取れるというわけでは無いし。と思うことが増え、他人の何気ない情報を見ている時間で単語をいくつか覚えたほうが圧倒的に自分のためになると今更気づいた(遅い)

 

また、SNSであいつがあれやってたから俺もあれやろうかな、とか、あいつがあそこ行ってたんだけど俺もあそこ行こうかな、と思うことに疑問を感じるようになり、なぜ自分の意思で物事を決められないのかと考えた。

自分でアイデアを生んで、自分で考えて、自分で行動する。行動のきっかけから実際に動くことまで全てを自分で行うということに意義を感じた。

さっきも述べた通り、積極的に自分から人に関わるような人間ではないので、小さいころから、情報は自分の手で調べて仕入れるという力はそこら辺の人より持っている自信がある。けれども、SNSを続けてきた中で簡単に身近な情報が自然と目につくようになり、そのような力が自分の中で欠けてきているのではないかと感じた。

 

SNSが普及した現代の若者において自分自身が感じ始めていることは、「自ら行動すること」「自分なりのアイデアを出す力」が欠けてきているのでは無いかということ。

つまりは他人任せな人が増えてきていることへの危惧である。自分の周りでも、講義の時間や日程、教室の場所などを自分で調べもせずに聞いてくる人が多い。なぜ調べれば簡単にわかるのにすぐに人を頼るのかと思う。自分はまだ学生という立場にいて、就職はしていないので職場という場所を深くは知らないが、就職後の世界は、なんでも人に聞いてすぐに解決できる、そんな簡単な世界ではないと思っている。

他人任せな人が増えていくと、様々な人間が他人のために時間を割くことになり、自分のやるべきことに集中できないため、効率も悪くなり、やがては社会全体のスピード感が遅くなって、社会の衰退へつながる。だからこそ、自分で行動する力というものを極めていきたいと思っていて、自ら課題や現状を打開する人が増えていってほしいと思う。

 

「多様性」と言われる時代、その多様な色は、誰かが創り出したものを変えて自分なりに仕上げた色が溢れているだけで、土から自分で創りあげた色というのは一体いくつあるのだろうか。

自分自身の色を生む。その大切さを忘れずに。